八幡山城址 滋賀県議会議員 ありむら国俊

2020年12月20日

八幡山城は、豊臣秀吉公の甥の豊臣秀次公が築いた城郭で、近江八幡はその城下町です。

南麓にある近江鉄道株式会社の八幡山ロープウェーに乗車すれば、町並みを一望しながら4分程度で八幡山城址駅に到着します。先日も妻と一緒に行ってきました。現在は石垣を残すのみですが、本丸跡には豊臣秀次公の菩提寺である瑞龍寺(村雲御所)が、1963年(昭和38年)に京都から移築されました。

時代は遡り、1582年(天正10年)。本能寺の変と山崎の戦いの後、灰燼に帰した安土城は清須会議を経て三法師(織田秀信)を城主に再興する事になりました。

しかし、翌1583年(天正11年)。賤ケ岳の戦い以降、政情が豊臣秀吉公の天下へ移行するなか、豊臣秀次公は近江国を要衝とする目的で八幡山城の築城に着手します。

主に、安土城下町の人々が八幡山城下町に移住し、町並みは横筋4通り、縦筋12通りを中心に碁盤目状に作られました。

通常の城下町は、町筋をジグザグにして防備能力を高めますが、八幡山城下町は商業振興第一主義として、八幡堀は平和的に運河の役割を果たしました。

時代は下り、389年後。荒れ果てた八幡堀を公園や駐車場とする埋め立て工事が始まりましたが、当時の近江八幡青年会議所の川端五兵衞理事長(後に市長)らが苦心惨憺(さんたん)尽力し、1975年(昭和50年)に埋め立て工事は中断。泥土浚渫と護岸整備が開始されました。後年、八幡堀の周辺は国の重要伝統的建造物群保存地区、全国で初めての重要文化的景観に選定され、八幡堀は名実ともに日本を代表する名所になりました。

ここ数年で、八幡堀の南津田町地先における護岸整備は完了し、現在は上流側の船木町地先へ拡大整備するための協議を県と進めています。

一方、八幡堀は全面浚渫時から41年が経過しているため泥土堆積の調査を県に働きかけた結果、幸円橋から境橋にかけて、特に本町橋付近から白雲橋の約650mで、30cm以上の泥土堆積が確認されました。県東近江土木事務所には令和2年度から令和4年度の3か年で、1900m3の泥土浚渫を行う計画を決めて頂きました。近江八幡市、八幡学区自治連合会、まちづくり協議会、八幡堀を守る会(苗村喜正代表)など関係者と連携する事業です。

ところで、八幡山城の築城から437年後の今年、八幡山の景観を良くする会(村西耕爾代表)が「旧跡八幡山城・石垣見える化プロジェクト」を開始されました。湖周道路や街中から遠望する石垣群の出現に驚かれた方も多いと思います。年末から年始にかけて、さらに石垣の見える化を進めるそうで石垣ファンとしても楽しみです。

余談ですが、JR安土駅ロータリーには織田信長公の銅像があります。近江八幡市議の時分に市議会などで、八幡公園に立つ豊臣秀次公の銅像を顕彰するためにJR近江八幡駅ロータリーへ移設か増設をすべきと提案し機運の醸成を図ってきました。ご縁ある方々と協調させて頂き実現したいと思います。

同時期に提案した侍や近江商人装いの人物が八幡堀周辺を散策する案は、近江八幡観光物産協会のご協力によりお蔭様で具現化に至りました。

いよいよ、NHK大河「麒麟がくる」が佳境に入ります。その後の時代を担った豊臣秀次公。先人が守り継いだ八幡山城址と八幡堀周辺を後世へ美しく引き継ぎたいと私も願います。皆様も今一度、八幡山城址へ赴いて頂ければ幸いです。