奇襲となってしまった、真珠湾攻撃。       滋賀県議会議員 ありむら国俊

2020年8月6日

1日に竜王町、8日に近江八幡市の平和祈念式が予定されています。

昭和20年の終戦から75年目の夏。思い起こせば子供の頃、敗戦がゆえに私たち日本人は悪いことをしましたという戦後の教育がありました。しかし、これでは自分の国に誇りを持つことができません。

遡ること、幕末・明治・大正・昭和の時代に欧米列強が植民地主義を掲げて進出するなか、特に南下政策を進めるロシアへの対抗が不可欠であったこと。

ABCD包囲網(アメリカ・イギリス・中国・オランダ)により、日本の近代工業に必要な石油や物資をストップさせたこと。アメリカが一方的に日本に突きつけた無理難題の「ハル・ノート」は到底受け入れられないものでした。

日本は、真珠湾攻撃に向け連合艦隊をハワイ沖に送り出すにあたり、政府は合法的に開戦通告の準備を整え、山本五十六司令長官も「くれぐれも騙し討ちにならぬよう」と念を押していました。

それにもかかわらず、野村氏・来栖氏(ワシントンにある日本大使館大使)が、真珠湾攻撃の開始から、55分も遅れてアメリカのハル国務長官に通告書を渡すという最悪の事態となりました。

その後、ルーズベルト大統領は、この失態を最大限に利用し、日本の卑劣極まりないやり方として世界中に吹聴し印象付けたのは周知の通りです。

戦後の東京裁判で日本側は「大使館員の不慣れなタイプ打ちのため通告時間が遅れてしまった」と証言しましたが、実は開戦の前日、外務省は「これから長文の外交文書の電報を送る。改めて通知する時刻にアメリカ側へ手渡せるよう万端の準備をしておくように」と日本大使館に指示を出していました。

ところが、日本大使館ではこの日の夜、同僚の送別会が予定されていて一人残らず大使館を離れてしまったのです。重要な予告電報よりも送別会を優先させたのです。外務省が開戦当時の一連の経緯をようやく認めたのは、平成6年のことです。(『かくて昭和史は甦る』渡辺昇一著より)

私は、アメリカ人が言う「リメンバー・パールハーバー」を聞くたびに辛くなります。

それは、古来より礼節を知る日本人が今もなお誤解されていること。海を渡り、遠い戦地で亡くなられた方々の否定に繋がることを危惧するからです。先の大戦で日本の戦没者は、310万人。何を想い、何を励みとして日々過ごされたのか。それは疑いもなく、家族、友人、恋人であったと私は信じます。8月15日いろんな想いをのせて、お参りさせていただきたいと思います。