安土城の築城は、織田信長公が武田勝頼を長篠の合戦で討ち破った翌年の天正4年(1576)に始まります。築城にあたり、畿内・東海・北陸から多くの人夫を徴発し、当代最高の技術を持つ職人達が動員されました。安土城は戦闘を目的とした城ではなく、天下人の城となるべく当時の文化の粋を集め、まさに政治支配に重点を置いた「見せる」要素が強い城郭だったようです。
築城開始から3年後の天正7年(1579)に豪壮華麗な天主の安土城が完成しました。ところが、3年後の天正10年(1582)に本能寺の変で信長公が亡くなると、安土城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れた直後に、天主・本丸は焼失してしまいます。それでも安土城は天下を象徴する城として、秀吉の庇護のもとに信長公の息子、信雄や孫の三法師が入城を果たしました。しかし、3年後の天正13年(1585)に小牧・長久手の戦いで信雄が秀吉に屈し、織田家の天下は終焉を迎え安土城はその役目を終えました。
その後、江戸時代を通じて信長公が安土城内に建立した摠見寺が菩提を弔いながら、現在も城跡を護り続けています。
21日の早朝に安土城跡へ赴き、加藤ご住職にお目にかかる機会を得ました。
私は眞念寺住職(南津田町)ですが、真宗大谷派のお勤めと異なり、力強く太鼓を打ちながら加藤ご住職のお経はとても新鮮でした。
また安土城跡からほど近いNさん宅で、思いがけず祖母(藤居静子・藤居本家前当主)が話題にのぼり、「早く安土城を建てましょう」と生前に熱く語っていた事を伺いました。ご縁は誠に不思議です。
いよいよ、安土城復元の本格的な検討をスタートさせるため、県議会2月定例会議で新年度事業予算(案)に関連経費が計上され審議が始まります。
437年の時を経て、往時の夢とロマンを現実のものとするタイミングがやってきました。全国的に想像以上の手応えがある安土城復元のために、地元県議として本腰を入れて各方面の関係者と復元の方向性・方法を検討し、諸課題を乗り越え目的達成のために全力で邁進したいと決意しております。